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自性寺にある河童の墓と詫び証文






中津市新魚町にある自性寺です。すぐそばの山国川を渡ればそこは福岡県。今日は大分と福岡の県境にあるお寺から珍スポット情報をお送りしたいと思います

この寺は奥平藩歴代の菩提寺になっている禅寺です
金剛山 自性禅寺(臨済宗・妙心寺派)
自性寺は奥平藩歴代の菩提寺で、天正5年(1577)三河国に梅心宗鉄禅師を開山として、金剛山万松寺と称して創建される。その後数箇所、藩の転封に随い移り、享保2年(1717)現在地に移る。延享2年(1745)自性寺と改称する。十二世堤洲和尚は、近世臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師の法嗣で、宝暦14年(1764)に入寺。当時は、白隠門下の九州における最初の修行道場として多くの雲衲を接得。その後海門・寧山・恵巌と後を嗣ぎ、道風大いに振い、十六世益州和尚の時に明治維新を迎える。本尊は釈迦牟尼仏。観音堂・地蔵堂は古くから信仰を受けている
大雅堂拝観の方は北側の門よりお入り下さい

白壁を伝っていくと観音堂がありました

観音堂の屋根を見上げると立派な鬼瓦がついてます。あれれ、なにか一ヶ所変だよね。よく見ると河童の瓦じゃないですか。これは面白い。そうなんです。この自性寺は河童を祀るお寺だったのです。先日書いた寺町にある円応寺。あそこにも河童のお墓があったよね。この辺りには、きっとたくさんの河童が住んでたんだろうなぁ。河童の瓦が1つ。そして鬼瓦が9つの、合計10屋根にはあるそうです。それに鬼瓦が山伏の化身なんだって。9っていう数字は観音堂の中に安置されている9人の山伏の位牌の数みたい。なんでも奥平藩の三代忠昌公の嫡男昌能は気性が大変荒く、魚を捕りに行って水が濁っていたことに腹をたて9人の山伏を殺してしまったそうです。その後、四代目になった昌能は減封左遷されました。もしかして山伏の祟りか。そう思った昌能は悔い改め九体のお地蔵様をつくり九人地蔵と名付け崇拝したそうです

河童はケンヒキ太郎

河童ケンヒキ太郎像
自性寺十三代海門和尚は理由あって、人について苦しめていた河童を、仏縁により改心させました。その時の、河童の書いた詫びの証文が寺に伝わっております。ここに安置している像は、地域おこしグループNPO法人、豊の国建設クラブの人たちが、山国川の守り本尊として奉納したものです。尚、この観音堂の屋根には、山国川の方向を見ているカッパの鬼瓦と、九人の山伏の化身で九つの別の顔をした鬼瓦が、それぞれ十方を見わたしております

観音堂の中にも河童がいます

今度は河童のお墓を見てみましょう

やはり円応寺と同じく仏門に入った河童なんですね。しかもほとんど同じ形をしています

河童の墓
自性寺十三代海門和尚(1743~1813)は、真玉町にある真玉寺の小僧や、中津の女性に取り憑いたカッパを仏縁により改心させています。墓の側面の石は川にあったものを使っております。また、寺にはカッパの書いた詫びの証文もつたわっております

自性寺の敷地内には池大雅の書画などを展示してある大雅堂があります(有料)。本当ならこの中に海門和尚が改心させて書かせたという河童の詫び証文が展示されてるのですが、今は展示していないらしい。次はひな祭の頃に出すかもと言ってました。原物を見たい人はあらかじめ確認した方がいいですよ。廿二っていうのはケンヒキ太郎が22歳の時に書いた証文ってことなんでしょうか。ちなみに河童の詫び証文はお隣の豊後高田市にもありますよ
河童の詫証文
自性寺に法華経を上げておくれなさい。皆々参りさっぱりと退きまする。この後人に災い致すまい。御屋敷内は不及申中津中の人に皆わざはひ致すまい、大人にも致すまい。私の気分はさっぱりと退時にようなり右女へ再障り不申間敷右証相書き私はじめ四捨人の者とも魚床殺害から後日事、野辺書仕間敷候、詫証文の件
天明六年六月十五日 ケンヒキ太郎 廿二

境内には織部灯籠(キリシタン灯籠)もありました。竿部分には宣教師風な人物が陽刻されていますね。全国各地に伝わる河童伝説。その中でも今回は河童の詫び文があるという、ちょっと変わったお寺を紹介しました。一番の見どころは全国的にも珍しい河童の瓦だと思います
(大分県:中津市新魚町1903 臨済宗妙心寺派 金剛山 自性寺 河童の墓・詫び証文)
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この記事へのコメント
未だに鬼瓦も本物を見たことが無い私ですが、河童瓦も存在するのですね!
驚きです。
全国に河童のお話はあるようですが(札幌市にもあります)九州には本当に河童が存在していたのかな?と思うほど沢山の河童に関する史跡が沢山あるのですね・・・。
あれ、鬼瓦見たことないですか。お寺や古い商家とかには結構ついてますよ。河童の形をした瓦はここが初めてです。そういえば以前テレビでやってたけど、愛媛かどっかに若い女性の鬼師がいるそうです。厳しい世界だと思うけど女の人の感性でかっこいい鬼瓦ができるといいですね
河童はそれこそ全国地にあると思います。子供が読む地域の民話や伝説が語られている本を読むとそれこそ市町村に1個はあるんじゃないかと思うぐらい、どこでものってます。一番身近な妖怪だったのかも。なので珍スポットを探すときは河童を追いかけると意外とネタがあるんだよ(笑)
いつも写真、ご説明の内容の濃いご紹介に感心しきりであります。
河童は、各地に言い伝えなどやこういったお墓やミイラまでで伝わっていますが、やっぱり存在したのかもしれませんね。
ふと、あのアニメ「日本むかし話」を思い出しましたよ^^
河童って本当に居たのでしょうかね。
いろんなところで伝説になっていますし、お墓もあるし…。
珍しい写真ありがとうございます。
河童の話はほんと多いですね。ことわざとかにも使われてたり昔の日本にはいたのかも。そんな風に考えると楽しいですね
最近、子供用の地元に伝わる民話や伝説の話なんかをよく読んでます。意外と知らない話が多く、もっと自分の住む町のことを勉強しないとなぁ。そんなことを考えてます。子供は本を読むと大人とは違い想像力豊かです。ネットで調べられる便利な世の中だけど、やっぱり読書は大切ですね
河童の瓦は珍しいですね。特徴をとらえていて一目で河童と分かりました。瓦職人の人もかわった注文だったろうから、仕事していて楽しかっただろうなぁ
河童の墓には骨もあるんだろうか。それだけがちょっと気になるところです。中は石塔みたいなものしかないから謎ですが・・・。
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ひとり言・・・。 - おにぎり太郎 - 2012年01月21日 14:05:11
海門和尚の時代に日照りが続いたことがあったそうです。八面山の山頂で雨乞いをして満願の日になります。池から顔は女、体が竜のかたちをした竜女が現れます。和尚にそんな雨乞いをしても無駄じゃ。私の体から球をとりだして成仏させてくれるなら命を捨てても雨を降らせてやる。和尚は念仏を唱えます。やがて竜女の体から球がはなれ、雨が5日間に渡って降り続いたそうです。この球は決して女の人には見せないように。そう言い残して竜女は消えました
しばらくは中津城に保管されてたけど、ある時領主の奥方がこっそり箱の中から球を取りだして見てしまった。珠は石のように固くなり、ひびがはいって少し欠けてしまいます。それからは竜の珠は雨を降らす力が無くなったそうです。その球は殿様からもらった牛玉と共に、自性寺に大切に保管されてるという
(参考:大分の伝説 竜の珠)